4月14日、午後「公民館を守る会」に参加しました。
「公民館を守る会」は、公民館の運営審議会の委員数や開催回数から有料化などの意見が議会から出されたときに、公民館を使っている人たちの中から、このままの国立公民館のよさを守り育てていきたいということで始まった会です。
昨年の11月には公民館利用者団体発表会「公民館に入ったら世界が広がってしまった」が開かれ、そのときの記録集がこのたび出来上がりました。そのお披露目を兼ねて「私たちの学習権宣言」の学習会(5月19日 日曜日 午後1時半から 公民館地下ホール)を開くことになり、その準備のための話し合いが開かれたのです。
5月19日は荒井前公民館館長が基調講演をしてくれることが決まったそうで、テーマは憲法と公民館ということで話しをしてもらう予定です。
ほかに、公民館だよりの紙面の下に毎回載っているユネスコ学習権宣言(※)のすばらしさをもう一度みんなで確認したいという声が挙がりました。
私自身、国立に来てしばらくしたころ、自分の人生に対して先が見えない不安の中にいました。そんな25年前のある日、配布された公民館だよりの「学習権とは、問い続け、深く考える権利であり・・・」という言葉を見て、自分が悩んでいることそのものが既に権利であると認められたような気がして泣いたことを覚えています。
私はそれまで学ぶ権利とは学校で知識をまるで着物を着るように重ねていくものだと思っていました。そうではなくて、自分自身の内側に深く掘り下げていき、自分のいのちのかけがえのなさに気づいていく作業こそ学習なんだと、公民館だよりで教えてもらいました。その権利があると知った瞬間、心が開いた気がします。
学習権宣言は、25年経った今でも公民館だよりの欄外(下のほう)に書かれ続けています。
私はその言葉によって、今も、かつての私のように悩む権利を知り、公民館に足を運ぶ人が必ずいると思います。
だから、私は公民館はこれからも、誰にでも開かれた学習の場で在り続けていってほしいと思い、そのための活動を続けていきたいと思っています。
※ユネスコ学習権宣言
学習権宣言(抄訳)
1985年3月29日、第4回ユネスコ国際成人教育会議
学習権を承認するか否かは、人類にとって、これまでにもまして重要な課題となっている。
学習権とは、
読み書きの権利であり、
問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。
成人教育パリ会議は、この権利の重要性を再確認する。
学習権は未来のためにとっておかれる文化的ぜいたく品ではない。
それは、生き残るという問題が解決されてから生じる権利ではない。
それは、基礎的な欲求が満たされたあとに行使されるようなものではない。
学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である。
もし、世界の人々が、食料の生産やその他の基本的な人間の欲求が満たされることを望むならば、世界の人々は学習権をもたなければならない。
もし、女性も男性も、より健康な生活を営もうとするなら、彼らは学習権をもたなければならない。
もし、わたしたちが戦争を避けようとするなら、平和に生きることを学び、お互いに理解し合うことを学ばねばならない。
“学習”こそはキーワードである。
学習権なくしては、人間的発達はあり得ない。
学習権なくしては、農業や工業の躍進も地域の健康の増進もなく、そして、さらに学習条件の改善もないであろう。
この権利なしには、都市や農村で働く人たちの生活水準の向上もないであろう。
しかし、学習権はたんなる経済発展の手段ではない。
それは基本的権利の一つとしてとらえられなければならない。
学習活動はあらゆる教育活動の中心に位置づけられ、人々を、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていくものである。
それは基本的人権の一つであり、その正当性は普遍的である。
学習権は、人類の一部のものに限定されてはならない。すなわち、男性 や工業国や有産階級や、学校教育を受けられる幸運な若者たちだけの、排他的特権であってはならない。(中略)
人類が将来どうなるか、それは誰がきめるのか。これはすべての政府・非政府組織、個人、グルーブが直面している問題である。これ はまた、成人の教育活動に従事している女性と男性が、そしてすべての人間が個人として、集団として、さらに人類全体として、自らの運 命を自ら統御することができるようにと努力している女性と男性が、直面している問題でもある。