また争いが続く!明和マンション行政訴訟裁判

①なぜ、紛争を終わらせることができないのだろう。

9月25日、上原元市長に対する求償裁判の一審地裁判決が出ました。
これは2006年3月30日の明和マンション裁判最高裁判決を受けて国立市が明和地所に支払った約3200万円(今では利子が膨らみ4000万円を越えた)を上原元市長に求償する行政訴訟です。
地裁判決は、原告国立市の訴えを却下するという、国立市の敗訴でした。

この行政訴訟は、2009年12月に4名の住民が国立市長に対する住民訴訟をおこしたことがきっかけでした。
翌2010年に一審の地裁判決がおり、原告住民が勝ちました。

当時の関口市長は控訴、高裁で審議中の2011年4月の統一地方選挙で佐藤市長が市長に当選し、佐藤市長は控訴を取り下げ、地裁判決を確定させ、今回の行政訴訟に踏み切った訳です。
この行政訴訟に対して、この間、議会は過半数の賛成をもって、債権放棄の決議とその執行を求める決議を2回採択していますが、佐藤市長は従う義務はないということで裁判を継続してきました。

9月25日の地裁判決では、このことに対して、決議を認めない場合は再議にふすこともできたのに、それをしないまま裁判を続行したことは首長の権限の濫用と判断せざるをえないと厳しい結論を下しています。
つまり東京地方裁判所は議会の決議を重くとらえた訳です。

控訴期限の10月9日の前日にあたる10月8日、控訴の断念を求める私も含む11名(21名の議員の過半数)の議員の求めに応じて、市長は臨時議会を招集しました。
このことは高く評価できます。
臨時議会には大勢の市民が傍聴に来られていました。

市民に開かれた中での議論の結果、控訴の断念を求める意見書が賛成多数で採択されました。
意見書に反対9名、賛成11名(私を含む)でした。

しかし、翌9日、議会の意見書に反し、佐藤市長は控訴。
争いはまた継続されることになりました。

佐藤市長や市長を支持する議員の主たる主張は「本行政訴訟の元求償を求めた住民訴訟の判決との解離がありすぎる。地裁判決文に矛盾がある。上原元市長の重過失の判断をしていないので、控訴審で争うべき」でした。

私は8日の臨時議会で「重過失とは法律上ではどんな場合を言うのか?」と質問しましたが、永見副市長、佐藤市長の答弁は、「それに答える(専門的)能力を持っていないので答えられない」「求償を求める住民訴訟の地裁判決で上原元市長の重過失は認められている。」
なぜ、紛争を終わらせることができないのだろうか、深い徒労感に襲われています。

②明和マンション裁判の本質を外した求償裁判

そもそも、この問題の発端は2000年1月31日の臨時議会でした。
この臨時議会で明和マンション建設予定地も含め近隣地域の高さを20メートルに規制する条例案が成立しました。
都の建築確認を取り、40メートルのマンション建設計画工事に着手始めたばかりの明和地所は条例の撤回と上原元市長の営業妨害等で訴訟を起こしました。
臨時議会の日は定刻の10時になっても、議長は議場に入りませんでした。
議長は開議の拒否権を発動していました。

傍聴席は満席でした。
そのほとんどが、高さ規制の地区計画に同意した桐朋学園も含む近隣の住民の皆さまと大学通りの景観を愛する住民の皆さまでした。
まさしく当事者住民だった訳です。

前代未聞の仮議長を立てての審議と議事録作成まで全て自分たちでやることに決め、議会に入りました。
議員になって1年も経ていない私は、議場に入るべきか、入らないでいるべきか、正直大変迷いました。
どちらが「議員」として正しいのかわかりませんでした。
入る決断をした訳は、傍聴席を埋めつくす住民の熱気でした。
決して「市長」ではありませんでした。

「傍聴席の住民こそが主人公」
住民自治とは何かを、わからせてもらえた瞬間であったと思います。
あの日に体感した傍聴席のパワーは今も、これからも忘れることは決してないだろうと思います。
そして、これが、「明和マンション裁判」の核だと私は思います。
このことを抜きにした、争いは不毛であるし、未来へつながるまちづくりは生まれないと確信します。

佐藤市長は12月の私の一般質問に答えて、あと半年の本任期中に仕上げたい3つの施策のひとつに「まちづくり条例」をあげました。
紛争を終わらせ、「まちづくり条例」制定へ一気につなげることも選択できたのに…
佐藤市長に「諸葛孔明」はいなかったのでしょうか。
控訴によって、争いは続きます。

本気でこの紛争を終わらせることができる首長は、国立には現れないのでしょうか。